サッチー亀井 ヨガに出会うまでの旅

エピソード1
やんちゃ過ぎた少年時代
〜ウィンドサーフィンに
出逢うまで〜
小学生時分は運動と読書好きの父親のおかげで体育と作文が好きな子どもでしたが基本的にはボーっとするのも好きでした。
活発な面もあり、見様見まねで学校の砂場でバク転、前転、側転、なんでもできました。習い事は塾と書道なのに、なぜかお呼びがかかり水泳や陸上の大会に出たりもしていました。
自分でいうのもあれですが、元祖ジャニーズ系でした。
ジュノンボーイなんてまだない時代です(笑)

中学生になり入学した学校が当時神奈川で一番ワルと評判の学校で、
入学式中に上級生から因縁つけられて、いわゆる「メンタン切られ」たり。
とにかく荒んだ生徒が多い学校でしたが、そこも色々あって2年生で市内の別の学校へ転校しました。

ワルサ100倍のとこからの転校生という事ですぐに私は上級生らから目をつけられましたが、ハッタリをかましてデカイ態度で臨んだところ、見事退散してくれました(ホっ)。
その後、卒業まで番を張ることになりました。
自慢ですが、他校の女生徒からも人気で、“ビーバップハイスクール”を地でいってました(苦笑)。

そのころの友達M・I君のおかげでスピリチュアルにも目覚め、体外離脱を何度も体験するように。他に、心霊現象も毎日のように観ました。

チャネリング、サイキックな能力も開花し、同じくして、暴走族にも参加。
国内最大のチームだった“ブラックエンペラー”の横浜支部幹部として、再三の補導で幾度か両親と共に家裁へ行ったのは、今思えば本当に親不孝な息子でした。

その後もやんちゃな氣質はあいかわらずで、翌年入学した某美容学校もわずか2ヵ月で退学。親からの大ひんしゅくをかってしまいました。(当然ですよね)
その後は、友人のすすめで東京ディズニーランドを作る建設作業員としてIHI等で研修。まだ赤土とダンプ、重機入り混じる中、アドベンチャートンネル等を建設する部署で作業にあたりました。

そして、そのころ人生を決定的にした一件がおきたのです。
非行仲間だったS・S君がとある一件のことで急にいちゃもんつけてきました。
「亀、つきあい悪いんだよ!」と言い放ち、顔を拳でおもいっきりなぐられたのです。
とっさのことで一瞬ひるみましたが、気をとりなおしなぐり返そうか思ったけど、急に心の声がしてきてアホくさくなったので、「じゃあな!」とだけ言ってその場を後にしました。この時の自分の心の声を今でもハッキリおぼえています。

「こんな事してたらだめだ。別の世界で生きよう!」って。

その後、外資系大手の企業に奇跡の就職決定。
在職中三度の全社トップセールスの売り上げを叩き出しました。18、19才の頃です。
休日になんとなくウィンドサーフィンをはじめてみました。
3回目のウィンドスクール中コーチから衝撃の「ひと言」がありました。
「男のくせにおまえバランス感覚悪いな!」って。

この一声が私の負けず嫌いの炎を一氣に燃え上がらせてくれました。
その晩、いきつけの居酒屋A太郎で
「○○○さん、おれ、わるいっすけど世界行きますから!
プロウィンドサーファーになって世界でたたかいますから!!!」
と公言してしまったのです

同席の友人らは、「ムリでしょ~~」とか
「でかいこと言わないほうがいいよー」とか、
ネガティブ系のそんな言葉だらけでしたが、
わたしにはすでにハッキリとその時“世界”でたたかう自分が
ありありとハッキリみえたのです。

それからすぐに会社に辞職願出して、毎日横浜の鶴見から湘南に通いました。
365日24時間、海とウィンドサーフィン漬けの生活に入りました。
夜はまかない付きの湘南のとあるカフェバーでバイトして、
昼間は一日中海にでて練習を続けるという日々が始まりました。

ウィンドサーフィンはなんせ道具が多いスポーツなのでお金がかかります。
ボードにセイル、ウェットスーツ等々、それに車も。
ほんとうにお金がかかるスポーツなんです。
試合や合宿、遠征でお金が必要な時は今でいう読者モデルや、
新宿でホストクラブのバイトしたりもして資金を捻出してました。
まだバブル経済前夜って頃でした。
エピソード2
プロウィンドサーファー時代
〜草レースからわずか
数年で世界へ〜
湘南や地方への遠征で、アマチュアとして数々の実績をつくり、わたしはプロのウィンドサーファーとしてついにデビューしました。ほろ苦い下積み時代の苦労が報われた瞬間を味わいました。
同時にその頃、湘南でウィンドサーフィンスクールの校長兼インストラクターもしてました。徐々に認知度も上がり、毎日多くの人が受講しに来てくれました。
地方の方や海外からも。わたしが海外へ行った時でも現地でお声がかかるほど大人気でした。

その当時、時の運(命)をしっかりつかんでいた私は、やることなす事すべてに自然に上手くいきました。
気力・体力・知力のどれをとってもなにも怖いものなんてありませんでした。

練習の成果が徐々に着実につながりだしてきました。
全種目出来るプロは日本ではまだ少なく、テレビやマスコミへの露出も増え、
わたしを支援してくれるいくつものスポンサー企業からはとても感謝され喜んでくれました。
ここまでこれたのは自分のあくなき挑戦と膨大で緻密な練習・研究、そして、後援会、スポンサー企業、友人、メンバーさんたち全員のおかげです。

世界でたたかう環境と運にめぐまれたことは今でも誇りですし、感謝しています。

しかし、すべて順調だったわけではありません。
もともと呼吸が浅く、すぐに疲れてしまう性分のうえ、せっかちで些細な事にもイライラしっぱなしな面は相変わらずのままでした。
それと、線が細い少年だったわたしはとにかく筋肉をつけるのもひどく大変でした。
一日6食の食事法を実践して、合間にもプロティンアミノ酸や各サプリ等々、ありとあらゆるトレーニングを試し、筋肉つけて体重増やして試合に臨む生活でした。徐々に筋肉もつき、MAXで85キロの体重になって、体脂肪は3%でした。
見た目はたしかにボディビルダー並みまで仕上げましたが、いかんせん脂肪をそぎ落としすぎて体が冷えきってしまい、冬の海に入るのがつらくなってしまったのです。
ですので、翌年からは脂肪を落とし過ぎず、体脂肪を8~12%でのコンディション作りに代えていくことにしました。

しかし、悩みや状態を外的要因のせいにしてしまう癖は治らず、呼吸も浅いままでした。そんな状態を打破してくれるのはいつなのか想いをめぐらせている時のことです。
偶然、アメリカ遠征を終え、わたしはインディアンの酋長主宰の瞑想合宿に参加する機会を得ました。
各自の大きなリュックに寝袋や食料を詰め込んで、
全米中を歩いて横断する歩行瞑想のキャンプです。

見ること、出くわす事、カルチャーショックの連続でリーダーの酋長の半端ないスピリチュアルパワー炸裂の瞬間にも何度も遭遇しました。

ある日、朝からサークル(円陣)組んである儀式をしてた時です。

無風で、とおくの煙もまっすぐ上に昇る状態でした。

しかしです。

「酋長が風よ吹け。」といった途端、

今の今まで無風だった空気が一変しました。

正面からのもの凄い風が吹き荒れたのです。

時間にしてたぶん数分の事でしたが、あまりの出来事に

参加してた世界中の名のあるヒーラーたちも茫然としてます。

すると今度はわたしのいる後ろ側からも風が吹いて来たのです。

風に関してはプロのわたし。こんな事がある訳ないと思いましたが、
夢でもまぼろしでもなく、正面、後方ともに風が吹き荒れているのです。

参加者のどよめきも頂点をむかえた時、
酋長が天たかく人差し指をある呪文とともに振りおろしました。

「○△□?☆ ○△□?☆ ○△□?☆ ○△□?☆」

そういうと吹き荒れてた風は一瞬でピタっとやんだのです。

おたがいの顔をみる参加者たち。

わたしはこの現象の正体を知るのはすこし先のことです。

わたしたちは本来、未曾有の無限大の力をみな持っています。

酋長がいつも話してくれました。

森羅万象、生きとし生きるもの皆平等に尊い存在なこと。

呼吸を観察するものこそが、この世でわたしたち乗り物であるわたしたちの
肉体と魂を唯一結びつける鍵であり法なのだ。と、仰っしゃられました。

わたしは意を決して酋長に質問してみました。

「あの日の風は、いったいなんだったのでしょうか」

「あーあ、きみ、日本からの初めての友人よ。とてもいい質問だよ」

「あれは、コンシャスネスだよ。意識が生み出したマインドの風じゃよ」

「???」

「まあ、きみにもっと分かるように説明しよう。

此処はわれわれの先祖からの約束の地だ。

四方八方、神聖なエナジーで満たされている聖なる土地じゃよ。

わたしたちのコンシャスネス(意識)以外の事は起きない護られた土地じゃよ。

火も水も風も土も、わたしたちとおなじコンシャスネスで出来ているんじゃよ。

信じられるかね?」

「???」

「きみの住むアジアでも五行や陰陽、太陽崇拝、信仰等、いろいろあるじゃろ」

「はい。それとなにか関係でもあるのですか?」

「おおありじゃよ。もともと、わたしたちは皆、大いなるもの化身であり、器。

乗り物なんじゃよ。意識という無限の宇宙に住まう住人なんだ。
念じるだけで奇跡はおきるのだよ。エナジーという、
意識の層をゆらすことで全てをクリエイトすることが出来るんじゃよ。

シュメールやエジプト、インド、倭(日本)各古代文明では、ひとびとはテレパシーと共に、物体の移動も可能なほど、コンシャスネスの宇宙を自在に操っていたんじゃよ。
その名残が垣間見れるものが、オーパという類いじゃよ」

「酋長。グレイトな話過ぎて、なんだかこんがらがって来てしまいました…」

「そうじゃったか。きみはよくきいてくれたな。

きみに、聖なる名前、スピリチュアルネームを授けよう」

「それは、願ってもいない計らいに感激感謝します」

「ア ク ア・ ツ タ Akua Tuta 風の息吹じゃ」

「ありがとうございます!」

このような稀有な体験をいくつも味わう、まさに「魂の癒し 魂の息吹の旅」でした。この旅をさかいに、わたしの呼吸はみちがえる程、ときどきですが、長く、安定した深い呼吸にかわってきたのです。錬金術でいくつかの金属の破片がなにかの科学反応をおこし、

融解して金になる感じのように、見違えて格段に変容してきたのです。この時まだ、ヨガをはじめるとは夢にも思いませんでした。
エピソード3
ヨガ(師匠)との出逢い
〜引退・廃業・自己破産・
生保受給〜
ヨガ・瞑想指導者として再起をかける修業へ、そして…

その後もプロウィンドサーファーとして活動しながらも、わたしの呼吸が浅くて体が硬い状態はつづきました。

そして、ついに人生を変えてしまうほどの一大転機がおとずれたのです。

ヨーロッパでの遠征を終え、昔からの知人の赴任先のスリランカへ向かいました。

初めての地。高ぶる興奮を抑えるのが大変でした。

到着後の空港で待つこと3時間。
いくら待っても友人は現れませんでした。
しかたなく私はタクシーで行先を告げ車を走らせてもらいました。
当時のスリランカはまだセイロン時代の名残が町並みに多く残り、決して治安が良いとは言い難いところでした。

車を走らせること2時間位。
お世話になる予定の施設に到着しました。
そう。ここは瞑想・ヨガ道場。
インドやスリランカではアシュラムと呼ばれる施設です。
ここに籠り約1ヵ月、浮世と離れ、瞑想とヨガをしながら3日で一食という過酷な条件のもとで、クンダリーニから解脱そしてサマディ(覚醒)まで味わう修行を行うことになったのです。

わたしが使わせてもらえる部屋は元馬か牛か豚か、なにか動物のいた厩舎のような建物です。
部屋の隅に所どころにカピカピになった動物の糞が落ちている臭い部屋でした。
そこで朝3時30分から瞑想を始めるのです。
この時間は“ブラフマータイム”といって、昼でも夜でもない精妙なプラーナが散りばめられた聖なる時間とインド地方では言われています。

ここのアシュラムは、日本の武道の道場みたいに稽古や指導をするために常に指導者が居るわけではありません。
ですので、始めの数日と終わりの数日に指導者が居ただけでした。
わたしが滞在してた日数の半分以上はおもに一人での修行でした。

まあ、当時わたしは瞑想をする時は一人でやるもの位の認識しかありませんでした。
そして、ヨガをするには教えてくれる先生が絶対に必要だと思っていました。

しかし、ここでは全ったくその逆で、ヨガのポーズは一切教えてくれませんでした。
自分の居る部屋か、みんなが使えるホールの様なところで勝手にポーズの練習をしたりする別の人をたまに見かける程度でした。

そのかわり、瞑想は指導者が居る日には、朝4時から夜11時くらいまで、何も飲み食いひとつせずに、ひたすら内なる自分に問いかける時間を持てました。
その指導者は、広い瞑想ホールの一角に微動だにせず、ただ座しているだけでした。

ところがです。不思議なことに、指導者の“氣”がわたしのところまで伝わってきました。

プラーナと呼ばれるものです。

いわゆる“氣”が伝播してくるのが心で感じることが出来たのです。

呼吸による瞑想のことを、古代エジプトやギリシャ、インドでは

“聖なる科学”

“魂の癒し”

それか、“魂の学校”と呼ばれる所以(ゆえん)があります。

そうして、わたしは深遠なヨガ・瞑想に深くのめり込んで行くようになったのです。

その後、ハワイでサーフィンの神様とよばれる人のもと、ヨガポーズを初めてやりました。
ハタヨガでいうところの“太陽礼拝”をしたのです。
ハワイの風に吹かれ、とても気持ちよい想い出になったのが昨日のようです。

それから数年後、プロ選手引退の日がおとずれました。
おりからの不景気と、バブル経済破綻の影響をもろに受けての引退でした。

大会開催のためのスポンサー企業が集まらず、ウィンドサーフィン界は急激に縮小して行ってしまいました。

わたしの運営しているウィンドサーフィンスクールとお店もいつしか閑古鳥が鳴き、苦しい状況が続くようになり、しかし、生活レベルを下げれなくて借金ばかり膨らんでしまいました。

到底、どう転んでも払えない金額にまで膨らんでしまいました。

原因は自分の見栄と欲望から出た傲慢な心でした。

当時持っていたブラックカードやプラチナカードで、思う存分買い物や飲食、旅行にと使いまくっていたせいです。
とうとう首が回らなくなり、弁護士にお願いして免責の手続きを始めました。
正確に言うと、弁護士代もないから法テラスという機関を利用したのです。
通帳の全内容のコピーが義務つけられて、お金の全ての収支や使い道の提示、大好きだったプレミアムカーの売却。
命と同じくらい大切だったウィンドサーフィンのセイルやボード、お金になりそうな物は全て売却して免責に臨む必要があったのです。

そして、約10ヶ月後にようやく裁判所で免責決定され自己破産したのです。

この頃、唯一やすらげる場所は当時○○にあったヨガスタジオに行ってヨガすることだけでした。
そこのオーナーでヨガティーチャーの“○○”先生の教室は最高にしあわせな時間をわたしにもたらしてくれました。
人間としての垣根のない、裏表のない、本当の愛を分け与えてくれる、あたたかく心から尊敬できる素晴らしい先生でした。

ほっと一息したのもつかの間で、それからさらに私はさらに困窮することになりました。

借金は免責でなくなったとは言え、当時同棲していた人と別れる事になったのです。
理由は色々でここでは書くことはやめておきます。

そうこうあって、わたしは心が完全に折れて潰れて元にもどらなくなってしまいました。

単なる失恋が原因でというのではなく、心の羽根の根本から完全に翼がもぎ落ち、鬱になってしまったのです。

生きる力も、なにかを想像することも、なにもかもいやで、ほんとうになにもできなくって、薄暗い狭いワンルームでひきこもるのがやっとでした。

就職はおろか、アルバイトもする気力も体力も残ってはいませんでした。

もちろんヨガをする気力も体力もありませんでした。

真っ暗な森を立つことも出来ず、歩くことも出来ず、だれか助けを呼ぶこともできず、這いつくばっていることしかできませんでした。

過去の栄光も、マイケルさんやセナさんとウィンドサーフィンした想い出も、もう、遠い過去の話か、他人事の話のような気さえしてきました。

涙も三日三晩泣きとおしてもまだ出てきて、ひと月以上ずっと泣いても涙が止まりませんでした。

夢も希望も全く見えず、音や匂いすらもとうとうかすれてきました。

わたしの命のともしびが消えかけてきたのです。

わたしの心の深い暗い闇から、つめたくって音もしない、匂いもない、なにか得体の知れない恐怖ともよべる気配を感じだしたのです。

なにも居ないはずなのに心臓の鼓動はたかなり、耳はなにかの機械が発する高音のようなけたたましいノイズが聞こえだしたのです。

そう。わたしは精神に異常をついにきたし、幻覚、幻聴があらわれだしたのです。

もう自分の手には到底負えないところまで落ちてしまったのです。

わたしは気が遠くなるような幾つもの日々を過ごすことになったのです。
体重も激減していて、すでにガイコツのような形相で生きている常人には到底見えない状態でした。
そんな状態ですので働くことも当然できませんでした。

生活保護を受けて暮らしていたのです。

数ヶ月という長い時がすぎたのも気がつきませんでした。

心軽やかで世界をめざしたあの日も、雨の日も、雪の日も、日照りで凪の蒸し暑い日も、厳寒の吹きすさぶ日も、さわやかな風が吹き抜ける日も、すべて手放なさなければならない時がおとずれてしまったのです。

意識が朦朧(もうろう)として、いつまた、幻覚と幻聴、
狂気が来るかわからない状態です。

わたしは意を決してこの身を、命すら明け渡す決心で肚をくくる覚悟をしたのです… … …

… …

… …

どのくらいの時間がながれ 経ったかすらわかりませんが、
なにかがとつぜん変わりはじめた事だけはわかりました。

そう、長年気にかけていてどうすることもできずに放っておいた呼吸が、
浅かった呼吸が急激に、自分の内側の目にみえないパワーか、
エネルギーのようなものが、根源から勢いよく流れ込んで来たのです。

自分の居る部屋の端から端。

窓際から玄関。

カベをつきぬけて反発力をともない戻ってくる目に見えない力を、
わたしはまざまざと感じたのです。

そう。本来の呼吸。

呼吸という命の息吹がうまれだしてきたのです。

なんども夢か、幻か、あらたな別の幻覚か疑い、本当の呼吸か、
自分の息がそうであるのかを何日も何日も検証してみたのです。

それはまぎれもなく、わたしの息 呼吸でした。

吐く息も、そして、吐く息だけでなく 吸う息も、
内側にふたたび しっかりと戻ってくるメビウスの輪のような繊細で
強靭でしなやかで深遠で包括された魂の息吹が生まれ、蘇ったのです。

それはまるで天空とわたしたちの住まうこの大地をつなぐ生命の樹。

そのものに感じたのです。

すると、どこからともなく聞いたこともない音なのか、言葉なのか、
不思議なバイブレーションがあらわれてきたのです。

「フラカン イシュムカネー シナ

フラカン イシュムカネー シナ

フラカン イシュムカネー シナ

…  …  …   …   … …    」

永遠につづく刻まれた紋章のような音の木魂(こだま)波紋をのこし、

わたしのもとにおとずれた不思議なバイブレーション。音のコトバ。

だいぶあとでわかったことなのですが、
その“フラカン イシュムカネー シナ”は、古代の文明のシュメール語で“

呼吸こそ、神の風。

“神の息吹“という意味だったのです。

そう、あの日、アメリカインデイアンの酋長が唱えていた呪文そのものだったのです。

この日をさかいに、わたしは元気をとりもどしました。

ヨガと瞑想の日々へも少しづつですが着実にもどっていくことができました。

その後、某精神病院の職員として就職しました。
数か月の短い在職でしたが、患者さんと向き合う中で、
自分の使命として“呼吸にきづく生き方”
すなわちヨガ、本来のヨガを通じ、病んでいる人も救い、
すべての人をも自分らしく生きるために支援しようって決めました。

ヨガ指導者として生きる覚悟をきめた瞬間でした。
そして、弱冠の紆余曲折はありましたが、最愛の妻とも巡り逢うことができ、その妻とヨガスクールを設立し、応援してくれる素晴らしい仲間、わたしのレッスンを受けてくださるみなさまにも出会うことが出来ました。

わたしはこう想います。

ヨガが人を変えてくれるのではありません。

人が人として成長するには人の居る社会で揉まれ、

人に見返りを求めず、期待せず、

笑顔を忘れず、行動することだけです。

どんなに苦しい時でも、相手のことを想い、一呼吸して、

まごころからの行動でしめすことが最大の誠意であり愛だと思います。

そして、ヨガに話をもどすと…

ヨガは、ハードに汗をかくだけのフィットネスや、見た目艶やかなポーズをとることが目的では決してないってことをここで書いておきます。
また、ダイエットをうながす事はあっても単体でのダイエット効果をもたらしてくれるものでもありません。

私は過去に、ひたすら体を動かし続けるアシュタンガヨガや、個々の体格の差異を無視してマニュアルに則ったアイアンガーヨガ、インド国内では宗教団体であるシヴァナンダヨガ、etc …様々なヨガを学んで練習してきましたがどれもその団体の営利目的やリーダーの独断が強く、「本質」には程遠い感じがしてました。

また、昨今ではヨガを単なるビジネスと捉え、心と体をおざなりに、危険に曝し続けているホットヨガなど酷い状況はさらに酷くなっていて人心荒廃そのものが起きています。

これら全ては自己満足は得られても深い部分での気づきは決して得られません。

私はその全てを経験してきました。

さらに、膨大な時間を学びと研鑽に費やしてきました。

そして、最終的にたどり着いたのが「クリヤヨガ」と「スピリチュアルヒーリング(コンシャスネス・ヒーリング)」だったのです。

クリヤヨガはあなたの大切な時間と心と体と魂と魂の触れ合いの領域をも磨きをかけることができるシンプルで非常に強力なプロセスです。

一人ひとりが存在の源と繋がり、人生を思い通りに創造していけることを目的としています。

現代生活に身を置きながら、慈愛と友情と人との交流を最高に楽しみながら、真摯な想いと真心を伴に奏でて行くことの出来るハートフルなツールなのです。

仲間と分かち合う心と体と豊かで愛に溢れる癒しの魂の存在として、あなたの人生は大きく変わることでしょう。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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